2009年9月28日月曜日

八ッ場ダム中止:住民の行政事件訴訟で、事業の裏表を明らかにできないか







今回の八ッ場ダム中止の判断は、高度な政治判断にしても利害関係に立つ水没地区住民の生活を考えると、そう簡単にはいかないだろう。

 民主党政権は「マニフェストで中止を訴え、国民に支持された」と主張し、「中止は当然」の立場をとっている。
 一方、地域住民は「国との契約をどう考えるのか」と訴えている。「政権が変わっただけで、そんなに簡単に反故に出来るのか」との懸念がある。
 市民団体の負担金返済訴訟での弁護団も訴訟を継続するという。

 川辺川ダム、八ッ場ダムの中止は、民主党がマニフェストではっきり明記している公約であるために、政局にもなりかねないテーマである。

 一番犠牲を強いられる地域住民だ。「政権が変われば、国の継続事業も簡単に変えることが出来るのか」、そして「何故ここに来てダムは必要ないのか」、行政事件訴訟の提訴ではっきりさせる手もあるが、その可能性については問題もありそうだし、決して臨機応変、敏速な処理ではない。

 行政事件訴訟は、本来行政権の公権力による拘束力のある決定に対して不服である場合に提訴出来るモノで、住民の権利、利益を保護する一方で、行政の合法性/合目的性を議論できる。今回は国土交通省が相手になるが、国土交通省は中止ではなく推進派である。鳩山政権の政策だから、戦略局になるか。

 提訴するのは、水没する地域の住民だ。訴えるのは、憲法第25条の「生存権」や「国との契約の責任ある履行」の保障を求めることになるし、ダム建設中止の合法性、合目的性も議論される。

 しかし、難しい面もある。「自由裁量行為」として、一般的に行政の自由裁量に属する事項については、裁判所の権限が及ばない事がある。市民団体が提訴した、負担金拠出の差し止め訴訟も、この概念で敗訴になっている。もう一つは「統治行為」として、高度に政治的な意味を持った国家行為ないし国家的利害に直接関連する事項は行政事件訴訟から除外されるのだ。

 今回の川辺川ダム、八ッ場ダム中止は、民主党がマニフェストの掲げ、国民の絶大な信任を受け政権の座に就いた。ダム中止は「高度に政治的な意味を持つ」とも解することが出来る。

 一方で、マニフェストの法的位置づけも議論すべきである。前原さんや民主党の幹部は、事あるごとに「マニフェストに書いてある」と抗弁しているが、本当にマニフェストを根拠にして良いのか。自民党政権時代に「もっと大きなことをやるためには、この程度の公約違反は問題ではない」と入った総理がいたほどだ。


 しかし何はともあれ、公共事業には確かに税金のムダ遣いと思われることが多いのは確かだ。計画推進のために立ち退きや生活支援等で多額の補償金や自治体には交付金が流れている。川原湯で移転先を見に行ったが、広い庭に大きな邸宅が建っているのが目に入る。以前の住まいは、傾斜地や平坦地でも狭い敷地に評価額の低い家屋が建っていたのだろうことを考えると雲泥の差だろう。これも今までの生活、生まれ育った家を犠牲にしてのことと思うと仕方ないことなのだろう。ダム問題で鄙びてしまった温泉街を復興するには並大抵のことではない。

 長野原町だってダムが中止になれば、交付金は入ってこない。これといった産業も乏しい町にとっては、財政的にも大打撃だろう。

 ここに来て前原国土交通相は、ダム中止補償法なる立法措置、補償措置を提案して来たし、長期にわたる公共事業の見直し基準も作成するらしい。

 この川辺川ダム、八ッ場ダム中止で、今までの公共事業の裏表をすべて国民にオープンに出来る手はないか。住民の行政事件訴訟の提訴も一方法と思うのだが・・。

公共事業のあり方を根本から考え直す良い機会にしてほしい。

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