2011年3月8日火曜日

「月の砂漠」の御宿海岸で「元禄地震津波高」を知る


















外房、内房、アクアラインを通って帰るドライブに出、大原から128号を御宿めざし「月の砂漠」の御宿海岸に出た。綱代湾の約2kmにわたり砂浜が続く。この「月の砂漠記念館」と道路の境目の植え込みに「元禄地震の再来想定津波高」の標識がある。

この御宿海岸は、シーズンになると岸和田、中央、浜の3つの海水浴場が開かれる。今は砂浜で遊ぶ家族連れとサーファーで賑わっているが、広い海岸線ではまだまばらだ。湾に注ぎ込む河川にかかった橋を渡ると「月の砂漠記念像」がある。

この御宿海岸を舞台に、大正12年に加藤まさをさんが、童謡「月の砂漠」を発表した。砂浜から砂丘を模したコンクリートの上にラクダに載った王子様とお姫様の像が建立されている。今とは違って大正時代は、この辺は浜辺の原風景を保った漁村だったのだろうか。長く続く綺麗な砂浜が目に映ったのだろう。

流れる童謡を聴きながら、当時のことを想像するのも面白い。今、童謡、唱歌が小学校の音楽から消えていると聞いたことがあるが残念だ。昔の良き風景、風情を忘れては殺伐とした世相しか残らない。

知人が、「定年後住んでみたいところは房総だ」と言っていたが、私も房総は好きだ。房総は山がせり出し、海に囲まれた狭い平地に住居が建ち、生活が営まれている。魚はうまそうだし、気候も暖かそうだ。昼食に食べた地魚の寿司はうまかった。

でも地震、津波などの災害はどうなんだ。記念館と道路の境の植え込みに立っている「元禄地震の再来想定津波高」の標識が目に付いた。近くに立つと私の身長より高い。4~5m位の津波高になりそうだ。湾に入り込む河川を津波が猛スピードで逆流すれば相当奥まで津波被害が想定される。

帰って、「大地動乱の時代」(石橋克彦著 岩波新書 1994年)を開いてみた。

元禄地震(1703.12.31)は、赤穂浪士討ち入りの1年後に発生、M7.9~8.2と言われ、川崎~小田原、神奈川県中西部、房総南部の南関東全域が大きく揺れた。その3年後の1706年には宝永地震、富士山大爆発に至る。

房総半島外房南部は2~4m隆起し、5~10mの大津波が外房~九十九里浜を襲ったという。ここ御宿も5m位の津波が襲ったのだろう。その時の津波高なのだろう。

千葉県ハザードマップによると、延宝地震(1677年)、元禄地震(1703年)の記録に基づきシミュレーションし、津波浸水予測図を作成している。それによると御宿駅を越えて逆上流しているのが分る。元禄地震よりも延宝地震の方が更に上流にさかのぼっている。この延宝地震は、関東東方沖で発生し、地震動は小さいが特異な津波地震であったという。

当然に避難場所、避難箇所も表示されている。九十九里海岸付近を走っていると、「津波時は○○ホテルに避難」などの表示を見かけた。

何時起きても不思議ではないM7クラスの首都圏直下型地震、そして東海地震という巨大地震。この前が東海地震の想定震源域の端で駿府湾沖地震が発生し、熊野、和歌山沖地震も気にかかる。

私の住んでいる地域も避難場所に多摩川河川敷が指定され、方向を示す看板が出ている。国道を挟み、40~50分はかかる。道幅だって狭いところが多い。


写真上段左:月の砂漠記念館の植え込みに建つ「元禄地震の再来想定津波高」の標識

写真上段右:千葉県ハザードマップによる御宿町の浸水予測図 赤線が延宝地震、青線が元禄地震。延宝地震の方が津波の逆流域が大きい。

写真下段:御宿海岸の月の砂漠記念碑

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