霞ヶ関から国会を望む |
国会審議を聞いていて、どうして協調点が見いだせないのか不思議に思う。日本国憲法前文に「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と記されている。国会審議は国民目線でおこなうものであり、すべて国民のためでなければならない。勿論、国民にもいろんな立場の人がいるので考え方、利益の享受も異なるので一様でないことは確かだ。
しかし、基本的に国民目線での政策を推進するのであれば、与野党で協調点を見いだせるはずであるが、国会審議を聞いていると議論は平行線を辿り一致点は見いだせそうにもない。
不毛の審議を続け、政治スケジュールが詰まり時間切れになり、あとは数に物を言わせた強行採決になる。その様子をテレビの映像で見るたびに政治不信が募る。
何故、協調点、一致点が見いだせないのか。
国会に提出される法案のほとんどは内閣提出法案だ。憲法では国会が国の唯一の立法機関とうたっているが、国会議員の法案提出数は非常に少ない。内閣に法案を提出する規定は憲法にはないが、内閣法で規定されている。
ということは、多くは担当官庁からの政策提言であり、当然に官僚主導の法案作りになるのではないか。
政策には従来からの整合性されたポリシーが必要で一度決まれば、滅多なことで変更できない。時代の変化にも、なかなか対応できないのだ。
政策は、長い間の腐れ縁である族、省利省益が優先し一部の国民は利するが、大方の国民の利益は無視される。
国会審議での閣僚の答弁は、あらかじめ質問取りし官僚が答弁書を作成し、閣僚は野党議員などの質問にあたかも自分が答えるように棒読みする。答弁書は官僚作成だから国民目線とかけ離れている。野党議員は当然反発してくる。
でも質問が続かない。質問者には持ち時間があり厳守だ。時たま予想だにせぬ答弁があって審議は紛糾する。理事が委員長席の周りに集まって協議する。面倒な問題は理事会預かりで急場をしのぐ。時間が来て他党の質問者に変わっても、また同じ質問を繰り返す。
そんな審議過程に協調点など見いだせない。
さらに、最近多く例が見られるのだが、政治基盤の脆弱な政権が誕生すると財務省との離が重要になる。財務省の機嫌をそぐと政権運営が難しくなる。逆に近づき過ぎると嫌悪感を持たれ政権の支持率が下落する。
国民目線の政治をやるには、議員立法を徹底するしかない。そのためには立法能力のある国会議員を国会に送る必要がある。
でも、これも難しい。人材難時代だし、国会議員数削減の問題もある。勿論多ければ良いという問題でもない。
国会審議での協調点、一致点を見出す方法は、政府が野党案をどう取り込むかにある。政府案はどうしても官僚案になりやすく、反対に野党は国民目線の考え方になりやすい。ここが本当の政治主導だと思うのだが、民主党政権はパフォーマンスに走りすぎたり、財務省の庇護下にありすぎたりバランスの取れない政権だ。
官僚を抑え、包容力のある総理の出現を期待する。
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