2012年9月13日木曜日

池上本門寺・松涛園公開:西郷・勝の信頼関係が江戸城無血開城へ

松涛園 回遊式庭園

小堀遠州が作ったと言われる池上本門寺の松濤園が一般公開されていることを知り見学したが、寧ろ西郷と勝が江戸城明渡での会見場所と伝えられていることに興味を持った。今から144年前、江戸幕府から明治へと移る歴史的事件の解決方法をこの庭園を見ながら相談したことにロマンとも言うべきものを感じるが、江戸が焦土となることを避けての解決は、2人の信頼関係で成り立っていたのだ。

取りあえず腹ごしらえをしてからと思って、参道前のそば屋「千歳屋」で昼食に入った。店内を見ると約300年前と思われる池上本門寺周辺の俯瞰図が掲げられ、店の位置が書き込まれていた。相当歴史のあるそば屋なのだ。

女主人が、ここで勝さんたちが打ち合わせをして、西郷さんとの会見に向かったと先代から聞いていると話してくれた。この辺を池上というのは池上宗仲公が館と広大な土地を持っていたため池上と言ったそうだ。日蓮聖人を助けたのも池上公だ。

西郷、勝の会見の碑 あずまやは
残っていない
総門をくぐり、加藤清正が寄進したという石段を上り、仁王門を右折し五重塔前を左折、坂を下ると松濤園がある。

中央に池を配し、渓流を思わせるつくりの回遊式の庭園だという。小堀遠州の作の庭園はほかでも見たことはあるが寺院の縁側からの眺めで、このように周囲を歩ける庭園は初めてだ。

茶室も3棟あるが、昭和20年の戦災で伝来の茶室は焼失し、今あるのは茶室「鈍庵」のように裏千家から寄贈されたものらしい。

それらが点在する急斜面に「西郷隆盛、勝海舟会見の碑」が立っている。案内板に、慶応4年(1868年)3月、討幕軍の江戸城総攻撃を前に、討幕軍主席参謀の西郷と幕府軍の勝海舟が会見、江戸無血開城の交渉を行った。四阿(あずまや)で行われたと記されているが、今は残っていない

この庭園を見ながら、歴史に残る重要な事件が相談されていたのだ。池上本門寺には討幕軍の本陣も置かれて、勝海舟が西郷隆盛に会うためにここを訪れたというらしい。勝海舟の別荘、墓が少し離れた洗足池にあるが、勝が池上に来る途中で洗足池が気に入って別荘や墓を作ったと言われている。

江戸城明渡交渉は、1868年3~4月にかけて西郷と勝の間で行われた。西郷は3月15日に江戸城進撃を考えていたが、勝の使者が明け渡に関して、慶喜の処遇や明け渡しなど7か条を提案してきたそうだ。

西郷にしてみれば飲める条件ではなかったようだが、相手が勝だということで信頼し朝廷を説得し、3月14日に総攻撃は中止、勝は江戸焦土作戦も考えていたが、西郷、勝の信頼関係は江戸の焦土を回避し、4月11日の無血の開城へ導いたのだ。
                                                                                                              
この西郷、勝の会見には薩摩藩江戸藩邸という説もあり、そこには記念碑もたっているらしい。

どちらが正しいのかはわからない。

しかし、大事なことは歴史の一大事に当事者がどういう信頼関係に立って交渉していたかだ。

今の政界、民主党・代表選、自民党・総裁選、党首間のコミュニケーションを見ていると信頼関係が成り立っての政局とは思えない。

こんな連中の中から政治史に名の残る政治家が出て来るのか。

池上本門寺・松濤園を見学してつくづく思った。

歴史を刻むそば屋
千歳屋

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