佐世保市の女子高生殺人事件を見て思い出すのは、子どもの教育の80%は家庭、10%が学校、残り10%が社会にあると言われていたと思う。この種の事件が起きるたびに学校、教育委員会は何をやっていたかと責任を追及され、地域社会は「子どもを見守る運動」をしていたが効果がなかったのかとがっくりくる。
この佐世保市の女子高生の事件や大津市の「いじめ問題」でも同じことだが、犯罪防止など子どもの教育は家庭にあるのだ。それが家庭の問題を問わずに、批判しやすい学校、教育現場にその責任を押し付けル結果になっている。
でも学校自体の責任は全体の10%程度で、いくら対策を講じても効果は薄い。
それは、80%の責任を負っている家庭での教育を議論していないからではないか。佐世保の事件では加害者と思われる女子高生の家庭構成が週刊誌などで報じられている。何と立派な保護者ではないか。
父親は弁護士、母親は教育委員もやったという。でも母親の死、父親の再婚と加害女子高生にはたまらない家庭環境の変化があったのだろう。それが引き金となって今回の殺害事件に至ったとみられるが、「人を殺したいという欲求があった」とも言っているようで別の要因もあったのだろう。
こんな女子高生を学校はどう教育するのか。教育委員会にどう責任があるのか。
また、「声かけ」、通学路の安全監視活動をやっている地域社会がどう責任を取ろうとしているのか。
ほとんど無理な話ではないか。10%+10%の教育責任では対応は難しい。
ここはやっぱり80%の責任がある家庭の問題なのだ。この家庭内での責任を問わずしてこの種の事件の未然防止はできない。
ところが家庭内の子どもの問題になると、親が外部の言うことに聞き耳を持たず、逆に子どもを守ることに必死になり問題解決の糸口も作れないことだ。今回の佐世保の女子高生殺人事件も加害者の家族にそういう問題があったのではないか。
それと、「こんなことをやれば親、兄弟姉妹はどうなるか」ということを考えて思いとどまる思考の欠如があるのではないか。事件が起きれば家族は夜逃げ同然、バラバラになり世間の目を避けて生活するような悲惨な目にあう。
家族、兄弟姉妹、親戚は大事だからそんな事件は起こしてはならないという教育は学校でもできる。
でも、家庭問題を議論することはなかなか難しい。今回の例でも、大津市の例でも加害者(?)の母親は教育委員をやっていたという。そういう場合はなかなか意見ができないものだ。
家庭が子どもの教育に十分な責任を果たしていないところに、こう言った事件が後を絶たない要因ではないか。
まずは、学校、教育委員会を批判する前に、自分の家庭は責任を果たしていると言えるかどうかを反省してみることも大切ではないか。
本当に責任を持たなければならない家庭の問題に踏み込まずに対策の取りやすい学校、教育委員会を追及しても無駄のような気がする。
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