オッペンハイマー博士 E=mc2より |
12日朝のNHKラジオが、ウクライナ侵攻の当初核兵器の使用を検討していたことを米国の通信傍受で知り、その時は米国は派兵を考えていたらしいが、実現しなかったそうだ。その後、米国は常にロシアの核兵器使用に神経をとがらせているそうだ。
そして、もう一つ第96回アカデミー賞でノーラン監督の原爆の父「オッペンハイマー」の伝記映画が7部門を受賞したという。
何を描かったのか。複雑な矛盾に物語の価値がある」という。映画には大学卒業後一度も言っていないが、この映画はいってみようと思う。オッペンハイマーは苦労して、原爆の開発に成功する一方、実際に使用には抵抗があったようだ。当時日本は降伏の条件が整っていたし、アメリカが原爆の最初の使用国にしたくなかったという。しかし大統領が使うというのであれば仕方ないという立場だった。
「「E=mc2」世界一有名な方程式の伝記 デイビット・ボダニス著 早川書房 2005.2」の後手・アメリカの章でオッペンハイマーに関する記述がみられる。
それらによると、原発の開発はドイツが先行したいた。確かアインシュタインがそのことを知って大統領あてに「米国も急がなければ大変なことになる」と訴え、米国も原爆開発に力を入れることになった。
ロスアラモス研究所でハイゼンベルグが実験に成功していたが、オッペンハイマーが、ハーバード大、ラザーフォード、ゲッチンゲン大大を経て所長に就いた。オッペンハイマーは「内心に抱く恐れ」と「欲望を見抜き才能」を持っていたそうだ。
田舎にアメリカ中から物理学者を集めるには有能な研究者を集めなければならないとファインマン博士やフォン・ノイマンらを集めた。
原爆の開発は2つのグループで実施した。一つは天然ウラン核分裂の成分を抽出するグループでアメリカ人が中心になった。二つ目のグループはウランの代わりの元素・プルトニウムからのンぐるーぷでこちらはヨーロッパから来た研究者に任せたが、ヨーロッパチームが爆縮法で成功した。中心に低い濃度の玉を置き、周辺に通常の爆薬を配置した方法だ。
1945年8月24㎏のウラン235と関連する爆薬の一式がB29に積み込まれテアニン島に送られた。日本まで6時間の島だ。オッペンハイマー―はこの作業を監督したという。
しかしロシアラモスに勤務したということでその後FBI に調べられるし尾行もされた。大学教授として理論物理学を教えていれば安泰な生活ができただろうが、原爆開発に関与したことで不自由な生活になったのか。
伝記映画「オッペンハイマー」ではどう描かれているのだろうか興味がある。
そしてオッペンハイマーではなく他の研究者がロスアラモスの所p長になっていたら、おそらく米国の原爆開発は遅れていただろう。そうすると広島、長崎はなかったことになる。歴史って恐ろしい。
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