2009年12月15日火曜日

「貧しいときは、親は子供に飯を分け与えたものだ」

この言葉を聞いたことがある人が何人いるか。
 私は終戦直後に生まれたから食糧事情は悪かった。しかし、田舎で生活していたので食べる物は何とかなったようだが、量は十分ではなかった。

 毎日がそうだったから男の子供を持った母親は大変だ。母親の分を私達に分け与えてくれたものだ。その当時はそんなことは気づくはずもなかった。母親は、その後、皆が集まってチョッと豪勢な(?)な食事をするときに、「あの頃は、生活が苦しかって十分に飯を食わせてやれなかった」と申し訳なさそう言いったものだ。

 ところが最近、立て続けに2回、この言葉を聞くことになった。

 一回目は、東京に向かっていた車に中でNHKの「子育て」に関する対談を聞いていた時だ。

 5年前に離婚した男の子供を持つシングルマザーの家庭の話だ。御多分にもれず生活は厳しい。男の子は話しもしないし、問題のある家庭なのだ。1日3食の所を2食にし、それでも自分は我慢して子供に分け与えていた。貧しいなりにがんばる生活だったらしい。

 そうした生活が続くなかで、ある時突然、子供がまともになったというのだ。その男の子が、貧しい生活の中で母親は我慢して自分に飯を分け与えてくれていたことを知り、真面目な子供に変わったという。

 これこそ食育だという。

 2回目は、「たけしのTVタックル」の番組で、「子ども手当」が話題になった時、政治評論家の三宅一生さんが「昔は、親は我慢して子供に飯を分け与えたものだ」と発言された。生活が大変だから子育ての手当を出して、社会全体で子育てを助けることへの是非を問う議論の時だったと思う。

 三宅さんは、「貧しければ貧しいなりに子育てをするやり方がある」と言いたかったようで、私も同感であるが、「時代が違う」という多数の意見にかき消された。

 民主党が進める「子ども手当」は議論のあるところだ。子供に支給するのではなく、待機児童解消のための施策にまわし、親が仕事に就き家計を助け、貧しいなりにも生活を確保できる方が良いと思うのだが・・。
 「子ども手当」がテーマになると、子持ちのシングルマザーの家庭がテレビ画面に映る。今の生活は、「3食を2食しにし、自分は我慢して子供に分け与えている」とコメントしている。

 望んでそう言う境遇になった訳ではないだろう。貧しい成りに親子で生活できる手助けは、政治の責任だ。

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