2013年10月21日月曜日

鎌倉の世界遺産推薦取り下げ:鎌倉幕府、武家屋敷が何故土の中か

「武家の古都・鎌倉」
世界遺産推薦のポスター
2012.11.4撮影
鎌倉が世界遺産推薦を取り下げたが、何故、幕府や武家屋敷が土の中なのか。昨年11月鎌倉を訪れた時、「武家の古都・鎌倉」のポスターや江ノ電内のステッカーで世界遺産推薦に意欲を見せていたが、今年6月に断念したというニュースが流れた。その「不登録」理由に物的証拠がない」と指摘されていた。

私もこの「武家の古都・鎌倉 世界遺産登録推進 古都鎌倉と武家文化」という内容のポスターを見て一瞬「エッ」と思ったほどだ。鎌倉には寺社や大仏はあるが、武家文化と言うほど鎌倉幕府や当時の武家屋敷などは見当たらないのだ。

「物的証拠がない」と指摘されても当然である。むしろ推進する方に無理があるのではないかと思った。

でも土の中には、構築物の柱を立てた穴などだ見つかっているのだが、今は小学校だったり、住宅地になっている。

江ノ電内のステッカー
2012.11.4
何故、建造物として残っていないのか。それにはここ鎌倉の火災、地震、津波などの天災と、戦後の宅地開発が関係しているのではないか。1191年(建久2年)には鎌倉の大火で幕府や八幡宮は全焼した。戦後は住宅造成で自然や史跡が破壊されたのだ。

そもそも頼朝が幕府を開くまでは、鎌倉は一寒村で平たん部の少ない鎌倉にあって大蔵の地に幕府を開き武士政権が始まったのだ。今までの貴族文化とは違って館の規模も小さめだったのではないか。

三方を山に囲まれ、前は海に面し、交通の要所を切り通しでの要害の地で、寺社を配し、武家政権の都として武家文化を生み出したことが世界遺産の資産になると考えたのだろう。鎌倉の地図をみると奈良や京都と違って独特の政権所在地にみえる。

1225年に頼朝が鎌倉幕府を構築し、1333年新田義貞に滅ぼされるまで97年間の建造物が残っていないのは残念なことである。

武家館跡として宅地開発にも合わず残っているのが北条氏常盤亭跡地だという。平地の少ない鎌倉で山を削って造成、切通し付近の立地も鎌倉らしいという。

実は、鎌倉幕府は3度所在地が変わり、その所在地の名称が幕府の名称として碑に刻まれているのだ。

鎌倉幕府跡地と北条氏常盤亭跡地
最初は東の山麓の平たん地大蔵の場所で、今は清泉小学校になっている。実は以前鎌倉宮を訪ねたときに途中でここを通っていたのだ。確かに「大蔵幕府跡地」の碑が建っていたことを覚えている。その時は鎌倉幕府など頭になかったので、特に注意を惹かなかったのだ。もし鎌倉幕府跡地にでもなっていたら事情は違ったかもしれない。

北条政子が没した後、宇都宮辻子に幕府を移し、その後若宮大路に移った。そして1333年、新田義貞の鎌倉攻めで鎌倉幕府は倒れた。

97年の鎌倉幕府が終わったのだ。

鶴岡八幡宮も1063年に京都の石清水八幡宮を由比郷に勧請して創建されたが、1191年に大火で全焼したといわれる。そして今の大臣山に再建されたのだ。

確かに武家文化としての物証は土の中だが、歴史を考えると興味が出てきた。つぎの鎌倉訪問は幕府跡地をじっくり見てこようと思う。

参考:鎌倉班別行動 日本移動教室協会 2012.3.25




0 件のコメント: