オレンジ色に輝く「宗谷」の勇姿 2017.4.5 |
強運の「宗谷」は、終戦直後の国家事業としての難しい南極観測の偉業を達成し私たち子どもの夢を叶えてくれた奇跡の船だったのだ。4月1日に係留場所を異動し再公開されたというので5日見学に船の科学館へ行ってきた。宗谷を知ったのは、もう60年も前の事だった。
あの頃のことを思い出すと、南極観測に日本が与えられた場所はオングル島という誰も上陸など出来ないと考えていた場所だった。国家事業と言っても敗戦直後で資金など十分ではない。まず船だが砕氷船など持っていない。新建造など出来ない。いろいろ探して行き着いたのが灯台補給船として使われていた「宗谷」だったらしい。
この宗谷の歴史に驚かされた。
見学場所に表示された資料では1938年2月に旧ソ連向け貨物船「ボロチャエベツ」として建造、6月に日本の「地領丸」に改名、1939年7月にはチャーター船として荷の積み卸し、1940年6月には8インチ高角砲装備した特務艦「宗谷」になる。1948年2月引き揚げ船として使用され1950年5月から灯台補給船になった。強運と言われているのは南太平洋で米潜水艦の魚雷が命中したが不発、トラック島大空襲では奇跡的に生還した。宗谷だけだったという。
「宗谷」の奇跡を印した落書き |
これほど強運で奇跡の船はない。キッと大事業を成し遂げるだろうと誰でも思っただろう。
当時の「宗谷」の何局までの航路 |
その後、大改修を終えて1956年(昭和31年)に南極観測船として6次まで活躍した。
昭和32年1月30日、朝日新聞の号外で日本時間の30日、2時57分永田隊長、西堀越冬隊長、松本船長らがホルム湾に上陸、日章旗を揚げたと伝えた。
宗谷のオレンジ色は昔の姿のママだ。出港時は皆で甲板に出て手を振る姿しか知らないが船内は結構狭そうだが展示だからきれいにソファーにはカバーがかけてあり寝室、居室もきれいだが稼働しているときは汗臭く汚かっただろう事は容易に想像がつく。
順路に沿って4人ベッドの船室、食堂、機関長寝室ここでは氷状観測や物資の空輸を業務としていたと言い、当時の服装のマネキンが立っていた。便所、フロは海水や氷を溶かして使っていたらしい。狭い浴槽だが話は弾んだのだろう。
当時の観測隊員53人、乗組員77人が生活するのだから大変だ。
暑さを少しでも和らげるためにアイスクリームフリーザーがあるし、船外から空気を取り入れるフードのようなものもあった。
盲腸ぐらいの手術は出来る医務室、最後は操舵室、海図室そして船長室だ。こんな狭いところで暴風圏に入ると40~60度ローリングするというのだから尋常ではない。そこまでしても研究のためには行きたい南極なのだ。
研究も気象観測、オゾンホールの発見、月や火星からの隕石の発見、氷床掘削、コアの解析で気候変動の研究、CO2モニタリングと多義にわたった。
特にオゾンホールの存在は日本人研究者の方が早く知っていたが、残念なことに海外の研究者に先を越された事は知っていた。
でも南極物語では事情があって1年昭和基地に置き去りにされていた犬の2匹が生き残っていたことだろう。シロとタロと言ったが、首輪が外れて餌を漁ることが出来たために生き残ることが出来たのだろう。1匹ではどうだったか。
そして、宗谷が離岸するときに厚い氷に阻まれて離岸できず、松本船長は越冬を覚悟したそうだ。その時の新聞のニュースは覚えている。政府がアメリカに救援を依頼し、米国の砕氷艦グレーシャー号が救援に向かったが現場に着くまでに1週間かかるとのことだったが、近くにソ連の砕氷船オビ号が海鷹丸(一緒に南極に行った東京商船大学の練習船)の誘導で現場に近づき、厚い氷をグイグイ割って進む勇姿には驚いた。アメリカ、ソ連の力の差を思い知らされたのだ。
船内の居室に書かれた落書き(?)に「奇跡を印した宗谷よ」(第2次昭和50.3.30)、「偉大な宗谷よ さようなら 何時の日か又逢いに来る」(S53.10.2)と言う。宗谷を愛し、世話になった沢山の人がいるのだ。
船室に書かれた落書き |
入場料は不要で「運営維持協力金」を募金箱に入れれば良いのだが、もう少し沢山入れれば良かったか。
0 件のコメント:
コメントを投稿