asahi.com(2011.9.3)の「伸びよ、緑と共に 最後の四季 岡山・吹屋小」の記事が目に入った。この小学校は児童数7人で、2年生が1年生にアサガオの育て方を教えている。昨年の自分の経験を下級生に伝えているというが、児童の思考に合わせて柔軟に教え方を変えるという。ゆったりとした時間の中で子供達は確実に成長していると言う内容の記事だ。
そんな中で、この日本最古の木造校舎が、来春に廃校になると言う。
実は、私は60年前、吹屋町と言われていた頃の10~11歳の時に中野(吹屋から歩いて1時間ほど)と言うところに住んでいた。父親が吹屋小学校、母親が中野小学校(既に廃校になっていた)に勤務していたので中野小学校の教員住宅に住んでいた。
当時、吹屋町には吹屋、中野、坂本の3つの小学校と、吹屋中学校があった。3校対抗の体育祭のために吹屋小学校に年に一回集まっていた。当時、中野小学校は全校で120人程度で、3,4年生は複式学級だった。
父親が宿直の時に弟と一緒に行って吹屋小学校に寝たことが数回ある。1階に体育館のような広いホ講堂があった記憶がある。
たまたま思い立って2006年10月に想い出の中野、吹屋を母親と家内を連れて55年ぶりに訪れたことがある。
吹屋の街外れに位置し、木造2階建てで築100年は経つている。鉱山本部跡地に立てられ、板張り壁、羽目板囲いは年期が伺えるし、吊り格天井の講堂、吹き抜けの大廊下などは、木造洋風建設の粋を伝える日本最古の木造校舎で、当時の反映が偲ばれる。
時報を知らせる鐘もまだあり、長い紐を動かすとカンカンと音がする。開校以来の歴史を刻んでいるのだろうか。今は山間の分教場の様だ。
鉄筋コンクリート造の校舎が多い中で、木造校舎が見直されているが、廃校になるとはもったいない建築物である。
確か昔、玄関横に二宮尊徳の像が会ったと思ったが、今はない。
ここ吹屋は銅山で掘り起こした捨て石(硫化鉄鉱)を元に1700年頃、日本唯一のベンガラ産地として栄え、昭和30年代に化学品に取って代った。今は、ふるさと推進事業として「吹屋ふるさと村」を観光で売り出している。
中野には、銅山とベンガラ製造で巨大な富みを築き、庄屋でもあった広兼邸があり、当時の富豪ぶりが分る。
近くには、銅山・笹畝坑道があり、昭和47年に閉山するまでの近代鉱山の様子を見ることが出来る。子供の頃、男性がカンテラと弁当を持って通っていたのを覚えている。
吹屋と中野の途中に、ベンガラ館があり、吹屋弁柄の伝統的製法を後世に伝えようと61年国土庁のリフレッシュふるさと推進モデル事業で復元された。700℃の火力で焼く窯場室、水洗ひき臼室、酸分を抜くための脱酸水槽室などが復元されている。燃料は薪で、動力は水車だったという。
休憩室の写真から大きな建家から蒸気や煙が、もくもくと出ているのを見ると、当時のこの辺の環境は劣悪だったのだろう。
広兼邸の見学者に比べてこちらの見学者は少ないことに驚いた。女性管理人に「ここまで来てベンガラ館に寄らないなんておかしいですよね」というと、「興味のない人はドンドン通り過ぎるが、1時間以上入ったまま出てこない人もいる。心配になって探しに行くこともある」と言って笑う。
「当時は人も多かったのでしょうね」と聞くと、「今は、家が数軒しかないが当時は1000~2000人はいたと言われています。仕事以外何もすることがなかったので遊郭もあったそうです」と教えてくれた。
そんな中で、この日本最古の木造校舎が、来春に廃校になると言う。
実は、私は60年前、吹屋町と言われていた頃の10~11歳の時に中野(吹屋から歩いて1時間ほど)と言うところに住んでいた。父親が吹屋小学校、母親が中野小学校(既に廃校になっていた)に勤務していたので中野小学校の教員住宅に住んでいた。
当時、吹屋町には吹屋、中野、坂本の3つの小学校と、吹屋中学校があった。3校対抗の体育祭のために吹屋小学校に年に一回集まっていた。当時、中野小学校は全校で120人程度で、3,4年生は複式学級だった。
父親が宿直の時に弟と一緒に行って吹屋小学校に寝たことが数回ある。1階に体育館のような広いホ講堂があった記憶がある。
たまたま思い立って2006年10月に想い出の中野、吹屋を母親と家内を連れて55年ぶりに訪れたことがある。
吹屋の街外れに位置し、木造2階建てで築100年は経つている。鉱山本部跡地に立てられ、板張り壁、羽目板囲いは年期が伺えるし、吊り格天井の講堂、吹き抜けの大廊下などは、木造洋風建設の粋を伝える日本最古の木造校舎で、当時の反映が偲ばれる。
時報を知らせる鐘もまだあり、長い紐を動かすとカンカンと音がする。開校以来の歴史を刻んでいるのだろうか。今は山間の分教場の様だ。
鉄筋コンクリート造の校舎が多い中で、木造校舎が見直されているが、廃校になるとはもったいない建築物である。
確か昔、玄関横に二宮尊徳の像が会ったと思ったが、今はない。
ここ吹屋は銅山で掘り起こした捨て石(硫化鉄鉱)を元に1700年頃、日本唯一のベンガラ産地として栄え、昭和30年代に化学品に取って代った。今は、ふるさと推進事業として「吹屋ふるさと村」を観光で売り出している。
中野には、銅山とベンガラ製造で巨大な富みを築き、庄屋でもあった広兼邸があり、当時の富豪ぶりが分る。
近くには、銅山・笹畝坑道があり、昭和47年に閉山するまでの近代鉱山の様子を見ることが出来る。子供の頃、男性がカンテラと弁当を持って通っていたのを覚えている。
吹屋と中野の途中に、ベンガラ館があり、吹屋弁柄の伝統的製法を後世に伝えようと61年国土庁のリフレッシュふるさと推進モデル事業で復元された。700℃の火力で焼く窯場室、水洗ひき臼室、酸分を抜くための脱酸水槽室などが復元されている。燃料は薪で、動力は水車だったという。
休憩室の写真から大きな建家から蒸気や煙が、もくもくと出ているのを見ると、当時のこの辺の環境は劣悪だったのだろう。
広兼邸の見学者に比べてこちらの見学者は少ないことに驚いた。女性管理人に「ここまで来てベンガラ館に寄らないなんておかしいですよね」というと、「興味のない人はドンドン通り過ぎるが、1時間以上入ったまま出てこない人もいる。心配になって探しに行くこともある」と言って笑う。
「当時は人も多かったのでしょうね」と聞くと、「今は、家が数軒しかないが当時は1000~2000人はいたと言われています。仕事以外何もすることがなかったので遊郭もあったそうです」と教えてくれた。
産業や地域の興隆と衰退、そして先人の探求心を再発見できる「吹屋ふるさと村」だ。
写真上段左:ベンガラ館の内部 内部はベンガラ色で映えていた 2006.10.9
写真上段右:吹屋小学校 来春廃校が決まったようだ 2006.10.9
写真下段:吹屋ふるさと村 昔とほとんど町並みは変わらない 2006.10.9
[後記]
2012年3月20日 100年余りの歴史に幕、後は文化財として保存されると言う。「吹屋小学校」の記念碑も除幕された。
[後記]
2012年3月20日 100年余りの歴史に幕、後は文化財として保存されると言う。「吹屋小学校」の記念碑も除幕された。
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