2010年12月16日木曜日

忠臣蔵で考える今の世相











12月にはいると、もれなく出てくるのが忠臣蔵に関連する大型ドラマや特別番組だ。ストーリーに手が加えられ、浅野善人、吉良悪人の構図で語られるが、真相はどうなのか。忠臣蔵から現代の世相が見えてくる。

「あんなコトがなければ、これ程多くの人にお参りしてもらうこともなかったろうに」と老婆が線香を供えながら、手を合わせていた。意外にも若い女性の姿も目立つ。墓所では線香の臭いと煙が立ちこめていた泉岳寺を義士祭翌日の15日に、そして16日に両国の吉良旧訪ねた。

元禄14年(1701年)3月14日、松の廊下で刃傷に及んだ浅野内匠頭は即切腹、一方の吉良上野介は、お咎めなし。これでは納得の行かない大内内蔵助をはじめとする赤穂浪士は、元禄15年(1702年)12月14日、吉良邸に討ち入り本懐を遂げた。今から308年前のことだ。

それから50年後、上演された「仮名手本忠臣蔵」は、手を加えられ、浅野「善」、吉良「悪」のストーリーになり、勧善懲悪で人気を博した。それが今に続いているのだ。

今、メデイアの報道が世論構築に影響していると危惧されている。小沢さんの政治資金規正法違反事件での、検察情報の垂れ流し報道が小沢さん=悪の構図を形成したコトは、真実は別としても事実である。

しかし本当に吉良上野介は悪人だったのか。

泉岳寺で「どうして浅野内匠頭が、吉良上野介を斬りつけたのか」と聞くと、「そこがはっきりしないのです。はっきりさせる前に切腹になったのです」という。「吉良上野介は、悪人どころか、吉良では名君として慕われているではありませんか」と聞いてみた。

農民が苦しめられている洪水対策として一夜のうちに堤を築き黄金提と言われている。新田を作りその一部を塩田にして饗庭塩を作った。討ち入りで不運の名君とまで言われている。

でも地元で評判の名君であっても、幕府に入るとまた別の評価を受けるものだ。浅野内匠頭の接待役を指導する立場にあれば、虐めや賄賂などいろんなコトがあったのだろう。浅野内匠頭が「この間の遺恨おぼえたか・・・」と斬りつけたコトから推定されている

更には、赤穂の塩は品質が良く、吉良の塩は品質が悪かった。今で言う品質管理が行き届いていて、赤穂の塩はグレードを指定すれば実物を確認いなくても安心して買うコトが出来たそうだ(「峠から日本が見える」堺屋太一)。この点でも遺恨があったコトが考えられる。

この重要なタイミングに何故こんな行為に及んだのか。当時浅野内匠頭は35歳、清廉潔白であったが短気で気まぐれでもあったという。後のことを省みず、切れてしまったのか。この時、吉良上野介は61歳。吉良邸跡に新しく設置された吉良上野介の木像を見ると、高齢での老練さは滲ませているが、ドラマで作られた悪面には見えない。

今、子供が親を殺し、親が子供を殺す家族間の事件が多発している。「殺したら家族はどうなるか」推論する力が欠けている。若者が我慢出来ず、キレ易いのも心配だ。

また、為政者は地元では評価される人物でも、国全体で考えると悪者と思われる人もいる。政治とカネ」のスキャンダルを抱えている政治家、地元に利権誘導する政治家然りだ。

何はともあれ、忠臣蔵がこうも人気があるのは、この赤穂浪士47士の行為が主君に対する「忠」「義」
であったことだ。かなり前までは、日本社会にもこの忠義はあった。これが日本経済、社会を引っ張ってきたコトは確かだ。

いかし、今、経営者は簡単に従業員をリストラする。安い原材料、人件費を頼って海外へ進出し、国内は悲惨な雇用状況だ。大企業は社内留保するが、無理した雇用の確保は避ける。アメリカ式の経営が評価され、経済はグローバル化しているが、日本式経営は何処にいったのか。

当時喧嘩両成敗で、双方同じ処罰を受けると思われていたが、幕府はどうしてか、吉良上野介に「お咎めなし」だったコトで、何か不穏な動きがあるのではないか、あったときのことを考えて吉良邸を大川(隅田川)の東に移させたという。

最後に、政府も政策推進に当たっては、国民の常識を無視してはいけない。「国民目線」を大事にした判断を取らないと政権の存亡に係わる結果になる。犠牲になるのは、国民であることを忘れてはいけない。

308年前の出来事から、いろんなコトを考えさせられる。
写真上段左:吉良邸跡
写真上段右:吉良上野介の木像と首洗い井戸
写真下段左:泉岳寺 14日には義士祭が開かれる
写真下段右:赤穂四十七士の墓所 本当は四十六士 一人は広島に討ち入りの報告に行っていたが、6月に江戸に帰ってきた時には、仲間は切腹後だったという。

0 件のコメント: