讀賣新聞2016.8.28 名言巡札 「沈思黙考 ひたすら歩く」 |
ところが讀賣新聞(2016.8.28)の「よみほっと日曜版」の名言巡札「不幸続き真剣勝負の散歩道」で西田先生は「哲学の道」を歩いていないというのだ。
それによると、大哲学者西田先生の人生は苦悩と悲哀に充ちていたという。そんな先生が、何もかも忘れて学問に逃避、思惑に耽って歩いた道が「哲学の道」で西田哲学の中核となる「場所の理論」を完成させたとばかり思っていた。
しかしこれは間違いらしい。
西田先生の次男に当たる人が、思考を深めたのは「哲学の道」ではなく、自宅の二階の「廊下」だったというのだ。10mもある外廊下を行ったり来たりしていたそうだ。その姿を外から見ると異様だったろうと回想しているというのだ。
大学時代はそんなに興味もなく、桜の頃歩いた記憶があるが、その後家族を連れて一度歩いたこともある。銀閣寺近くの駐車場において歩くのだが若王子まで歩いても又同じ道を帰ってこなければならず途中で止めたことがある。
でもこの記事に載っているように周辺のことが詳しく分かっていたらもっと別な散歩があったろうと残念に思う。
「猿沢の池」の岡先生の場合は、確か新聞記事で読んだ。考えに考え抜いて思考していると思いつくのだという。ここも何度か歩いたが、昔だから周辺にはそんなに建物もなく池の周囲の道をゆっくり何周も歩いたのだろう。時には立ち止まって逆に歩くこともあっただろう。
岡先生の家は猿沢の池の近くにあったのか。西田先生の場合、住んでいる家が哲学の道とは離れていたのも理由の1つとみられていた。
私も偉大な学者が、他の人が気がつかなかった理論に行き着く過程には興味があった.最近ノーベル物理学賞を取った益川先生はフロから出るとき「対称性の破れ」(?)に思いついたと言うし、湯川先生は阪大時代に台風で足止めされ寝ていた布団の中で思いついたという。
「東大はどうなんだろうか」と三四郎池に言ってみたが、ここは思考しながらあるくことは危険だ。細い道で上り下りがある。うっかりすると池の中に落ちる。せいぜい三四郎がやったように寝そべって足の親指に釣り糸をくくりつけ昼寝する事ぐらいか。
でも「歩く」と言うことは頭の活性化にはいいのだ。何も特に言わないが多くの学者がそうやっているのではないか。
ところが今、偉人のエピソードが否定されている例が増えてきた。
ガリレオは本当にピサの斜塔からものを落としたのか?、ニュートンは、落ちるリンゴによって重力の法則をはっそうしたか?、ダーウィンはガラパゴスフィンチを見て進化論を思いついたか?、アインシュタインは本当に神の存在をしんじたのか?(以上、「ニュートンのリンゴ、アインシュタインの神、科学神話の虚実」青土社 2015.2)、
「何が本当で、何が噓か」凡人には分からない。誰が作り上げたエピソードか分からないが根拠が見いだせない事例が多いようだ。
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