2009年7月26日日曜日

有言実行 これぞ国の宝だ







京都に行けば、必ず三千院に寄ることにしている。何回も来ているが、来るたびに新しい発見がある。

 そんな三千院で出くわすのが「一隅を照らす」だ。最初に知ったのは比叡山延暦寺の根本中堂だった。ここには、「一隅を照らす」の看板(?)が掲げられている。

 最澄が比叡山を開山されたときに、山家学生式という修行僧の規則を作った。その中に「国宝とは何ものぞ、径寸十枚これ国宝にあらず。一隅を照らす、これすなわち国宝なり」と、比叡山を一隅を照らす人を養成する道場とされたのだ(この項 京都大原 三千院冊子より)。地方に行けば、お寺に「一隅を照らす」という看板が目につく。

 「一隅を照らす」とは、人それぞれがその立場での役割を十分に果たしていくことで、社会の一隅、心の一隅を照らされ、ひいては世の中全体を明るく平和になるようにしようと心がける運動だという(同冊子より)。

 自分の今の社会の立場で、最善を尽くすことは、言われるほど簡単なモノではなさそうだ。

 前述の山家学生式には、伝教大師の教えとして、「よく言いて行うことあたはざる国の師なり。よく行ないて言うことあたはざるは国の用なり。よく行ないよく言うは国の宝なり」。

 つまり有言実行は国の宝だが、不言実行は国にとっては必要、口先だけで実行しない有言不実行は国の師だという。有言不実行が何で国の師(先生)か疑問に思ったので僧侶に聞いてみた。

 僧侶によると、基本は有言実行で、これは宝だ。しかし、年をとったりして審美眼はあるが、体が動かない人もいる。実行は出来ないが、人を指導出来る人がいる。そう言う人は国の先生なのだ。一番ダメなのは、不言不実行でこれは国賊だという。

 宗教は、良い教えを持っている(例外もあるが)。お盆などにお参りしてもらった住職が、皆の前で話をされるが、良い教えもある。今世の中が乱れているが、こういった教えを受ける機会がほとんどなくなったせいでもある。

 私達が負託した国会議員・地方議員が、物見遊山で高い税金を使って海外研修とやらをやって、メデイアから批判されているが、比叡山で研修すれば国のために格段に役立つ。伝教大師の聖句には「悪事を己に向へ好事を他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極まりなり」とも説いている。「自分が、自分が」の今の国会議員の姿勢では「国民のため」の政治は期待できない。

 まず政治から改革していく必要があり、次ぎの総選挙に向け実行すべきである。

 民主党の政策集が公開された。まだ読んでいないが、各党のマニフェストも出そろうだろう。次の4年間の政治を託する議員を選び、投票所に必ず行き、意思表示すべきである。
マニフェストも候補者も、支持を受けたいために大風呂敷を広げやすい。今までは、有言不実行が多かったが、今回は変わってきた。

 有権者としては、不言不実行の無党派層が一番まずい。私もどちらかというと、無党派層の一人であるが、今回も必ず意思表示しようと思っている。

 ところで、今私達国民を導く有言不実行の国の師がいなくなったのはどうしてだろう。以前は財界、言論界にも著名な発言者が多かった。有言実行の先達達だ。しかし、今はメデイアにしょっちゅう顔を出すコメンテーター、実業家、ジャーナリスト、大学教授など小粒になった。大げさではあるが、社会混乱の原因かも知れない。

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