2015年5月26日火曜日

新緑を求めて1日鎌倉散策、一時地震で揺れた:鎌倉高校ー勝手踏切ー極楽寺ー切り通しー成就院ー大仏ー由比ヶ浜ー鶴岡八幡宮

25日は天気も良く新緑を求めて鎌倉に行ってきた。アジサイには少し早いと思ったがJR藤沢駅で降り江ノ電と徒歩で鎌倉高校前→稲村ヶ崎の「勝手踏切」→極楽寺→極楽寺切り通し→成就院→高徳院「大仏」→由比ヶ浜→鶴岡八幡宮「ひこばえ」のコースだ。ついでに地震、津波対策も見てきた。

最近のように地震が多いと出かけるときに「今日は起きないで」と祈っているが、今回は25日午後2時30分頃発生した地震は埼玉県北部を震源とするM5.6,震度5弱の規模だったが、鎌倉は震度3(?)位だったか。JRも一部影響を受けていたが私の利用する電車は影響がなく安堵した。

鎌倉高校駅前
そんな地震が起きることなど予想だにせず江ノ電で鎌倉高校前に降りた。鎌倉高校から駅への下り坂の景色は人気のスポットになっており電車が通過するのを移そうとカメラを構えて待っている観光客が多い。近県ナンバーの車は勿論のこと中国人の観光客もいる。ここはテレビのドラマでも使いたい光景ではあるが、国道は車の渋滞区間なので諦めて隣の極楽寺駅周辺となる。中井貴一、小泉今日子さんの「最後で2番目の恋」も極楽寺駅が使われていた。

稲村ヶ崎周辺の「勝手踏切」は危ない。線路を跨いで民家だったり料理屋があったり急な石段を登って民家が建つ。ゴミ集積所はさすがに線路の手前にある。線路内に歩きやすく板をひいたところもあるが、ほとんどは線路のままだ。線路がカーブしていて電車の接近が見にくいところは「注意」看板と「ガード柵」で急いで渡れないように工夫(?)されている。

注意看板の多い勝手踏切
稲村ヶ崎
しかしこの「勝手踏切」も「生活の便利さ」か「安全」かで住民と会社がもめているらしい。江ノ電が出来る前から住んでいる住民にとっては言い分があるらしい。

極楽寺に向かった。新緑がきれいだが、相変わらす「撮影、写生厳禁」だ。それでもカメラを構えている見学者もいる。6~7人の修学旅行の中学生が「ここなら撮っても良いだろう」と門を背景にシャッターを切っていた。




極楽寺


近くのトンネルもシャッターチャンスの場所で観光客がカメラを構えて電車が来るのを待っている。江ノ電は観光に大きく役立っている。








極楽寺切り通しから成就院へ
又、この付近の切り通しは昔は鎌倉に入る主要な箇所で、鎌倉を守る役目も負っていた。今の道路は海抜19.6mと表示されているが,昔は成就院への参道の途中にある東結界の門付近が道路の位置だったようだ。急な坂道を上り、下りして鎌倉に入ることが出来るようになっていたというのだ。

その成就院のアジサイを見ようと思っていたら、2015年から2017年まで工事中でアジサイは咲かないようになっているという。そんなに上手く調整できるのか疑問に思ったが、西結界の門がある参道の両側にアジサイが海に向かって咲く光景が人気の的らしい。






海に向かって参道の両側に
咲くアジサイは名所だ

成就院は800年の歴史があるが1333年の新田義貞の鎌倉攻めで堂宇は焼失したが復興した。縁結びの神様らしい。

坂を下って鎌倉大仏に向かった。途中で力餅のお菓子屋さんのとこに碑が建っている。なんて読むのか分からなかったが、「はせかんのんへのちかみち」と読むらしい。長谷駅に出て大仏に向かった。

観光客が多い。車道も車で渋滞しているが歩道も混雑していた。200円で入った。ここは歴史的にも多くの震災に遭っている。入場券の裏に簡単に説明されているが、「国宝 鎌倉大仏因由」に詳しい。

始めて知ったのだが、この大仏は頼朝の侍女が民間の資金集めで最初は木像だったという。1238年から作り始め6年後に完成したが、1247年の大風で倒れたため1252年に現在の青銅製で復興し大仏殿の中に納めたようだ。1334,1369年の大風で倒れ、1498年には海潮(津波?)で流出し今のような露像になった。1923年の大震災では台座が崩れ前に傾いたが1925年に修復し、震災の時は台座と仏体が離れる免震構造になっているという。

鎌倉大仏 数度の天災にあう

鎌倉市の海抜マップでは高徳院は海抜11.8m、13mと言う人もいるが恐らく地点の違いか。台座の位置が13mとすると15m位の津波が押し寄せ引くときに持って行かれたのだろう。実際の津波の高さはそれ以上だったかもしれない。20円払って仏体の中に入ってみた。免震構造がどうなっているのかは確認できなかった。





大仏の内部 空洞になっているところが
頭部

その後海岸線に出て由比ヶ浜に向かった。











由比ヶ浜の海浜墓域
今は地下駐車場か

朝日新聞(2015.5.6)の「由比ヶ浜に墓域確立の跡」という記事でサーファーが遊ぶ鎌倉海浜はかって墓場だったというのだ。それによると、庶民の遺体は遺棄されるのが普通だったが京都で庶民の埋葬の習慣が広がり、京都から鎌倉の極楽寺の招かれた忍性によって広められたという。

この由比ヶ浜遺跡では4000体も埋められていたが1333年の新田義貞の鎌倉攻めノ時の戦死者だという。山間部は建長寺や極楽寺が入ってきて追い出されたために庶民は海浜に移ったようだ。

鎌倉には寺院が多く仏教が興隆したことと関係している。今は地下が由比ヶ浜駐車場になっている。

由比ヶ浜に表示されている避難経路
この付近には震災時の避難経路が表示されている。海辺の道路面は役4mあるが、更に高い場所にある避難所の小学校や中学校に誘導しているのだ。津波の高さはサイレンで知らせるという。

遅くなったが昼食を摂るため食堂に入った。14時20分頃だった。

食べ始めるとユラユラ建物が揺れ始めた。かなり大きく、時間も長い。30秒ほど揺れていた。お客同士顔を見合って「揺れていますね」という。店員が店の外を見に行ったが「変わらない」と帰ってきた。

大きくなった「ひこばえ」
帰りの電車が気になったので鶴岡八幡宮へ急いだ。「ひこばえ」は3年前の苗木から大きく成長していた。当初は専門家も事例がないので困っていたのだ。

でも気になったことは若宮大通りでの海抜表示は下馬付近で4mがあったきり鶴岡八幡まで気づかなかった。

以前来たときに職員に聞いたら社務所で12~13m、本殿では30mという。14mの津波が来ると社務所は水に浸かってしまう。

鎌倉駅近くでサイレンの音を聞くと鶴岡八幡宮の本殿に早く駆け上がることだ。10分ぐらいで津波が押し寄せてくる場合がある。

帰りは「わらび餅」を買って鎌倉駅に急いだ。遠くからホームに電車が入っているのを見て一安心。無事に帰って来れた。冷や汗ものの鎌倉見学だった。

東京に帰って孫たちに「地震どうだった?」と聞いたら、「揺れたよ」という。校内でサイレンが鳴って
皆机の下に潜ったらしい。久しぶりに緊張した日だった。

関連記事
2011年9月28日掲載
鎌倉を巨大津波が襲うと鎌倉大仏、鶴岡八幡宮はどうなる


0 件のコメント: