まだまだ余震の続く熊本地震も被災者の生活を取り戻す復興計画が急がれるが、3.11東北地方太平洋沖地震での復興計画、更には近いうちに起きるであろう首都直下地震での復興を考えると税金投入での整合性が出来ているのか。
甚大な震災が起きる度に防災の必要性が言われる。地震発生は確実に繰り返されるが、被災の光景も繰り返されている。熊本地震での市役所、公民館、病院、避難所になる学校の耐震対策が進んでいないことに驚く。担当者が言うには「ぜいたく」と思われ対応が出来にくいのだという。
起きる事は分かっているが、「何時起きるか分からない」ことに税金をかける訳にはいかないようだ。しかしそれを怠ったために「いざという時」に復興の障害になることは分かっていることだ。
ところで、復興計画は震災を受けた地方で異なることは分かるが、いろいろ出てくるであろう被災地の要望に国はどう答えるのか。
復興計画の特異性もあるだろうが、被災者の要望を整合性を持って国は援助出来ているのか。そして来たるべき首都直下地震ではどうなるのか。
寺田寅彦博士がその随筆で書いていたことを思い出す。震災が起きると被災の海岸寄りを避けて山間部に移るが、そのうちに震災のことは忘れて不便さから海岸寄りに帰って来る。役場の担当者も替わり被災したことなど忘れた町づくりを実施し、忘れた頃に又、震災に遭う。文明が進むと震災の被害も大きくなるというのだ。
今も良く言い得ていると思う。
今回の熊本地震での震災のニュースが流れる中で、朝日新聞(2016.5.5)の佐伯京大名誉教授の「異論のススメ 覚悟のいる「あきらめ」」と河田関西大学教授の「てんでんこ 「シミュレーションはごまかし」」が目に止まった。
佐伯先生は、「あきらめ」も肝心だと言われるが、簡単に諦めろと言っているのではなく、「本当のあきらめ」は覚悟がいる。巨大な自然の前では「人間の生命など実にもろい」という自覚を持つ必要があるというのだ。
そして、大震災は誰に対しても平等に襲いかかり近代社会の根幹を一気に破壊する。しかし、どれだけの防災対策や危機管理をしても巨大災害を抑える事はできない。どこかで「あきらめる」しかないが、これが現実なのだという。
一方、中央防災会議・専門調査会で防潮堤整備の大方針を決めた河田先生は、防潮堤を提言したが具体的には書かなかったが、それは現場の議論を反映させるためで地域に合ったいろんなバリエーションの堤防が出来たはずだが、メカニズムも解明せぬままに津波の痕跡などからシミュレーションし高さを決めてしまった事を反省している。
中央防災会議に計画をフィードバックし承認する仕組みを提言しておけば良かったと悔しがる。官僚や専門家が決めた防潮堤は町作りの発想に乏しく、「シミュレーションはごまかしだ」という。
この記事は防潮堤シリーズの一つだったが、防潮堤については役所が提示した高さに対して住民は「高すぎる。我々は海を見て生活している」と高さを低くするように抵抗していた(今はどうなったか知らない)。
復興計画は地域住民の要望と地域に合った計画にすべきで、官僚や専門家に頼り過ぎては行けないのだ。
復興予算も決めるが、計画は官僚が決めた条件に合わなければ下りない欠陥を持っている。地元に言わせると、「カネは出すが、口は出さない」式が良いようだ。
政府は選挙も控えてか、安倍総理は被災現場に二度も行き要望を聞き、補正予算(?)を組んで復興を応援しているように見かけるが、その都度の「やっつけ仕事」ではなく、日本のどこで起きても不思議ではない震災復興なのだからキチッとした整合性の取れた対策であって欲しい。
このままで行くと、「あの時はどうだった」「俺たちのとこはどうだ」と言うことになる。そして「あきらめ」も大切なのだ。
他人事ではない。自分が震災に遭ったとき「どうするか」、今から考えておかなければならない。何時起きても不思議ではない首都直下地震なのだ。出来れば「想定より規模の小さい地震で終わって欲しいが・・」。
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