2019年10月23日水曜日

主権者としての国民と象徴としての天皇:儀式踏襲でも付きまとう政教分離の憲法違反

「高御座」に立つ天皇に向かって万歳する安倍総理
2019.10.23朝日新聞

今日のテレビ、新聞は古式豊かで優雅な「即位礼正殿の儀」の様子を解説入りで伝える。奈良時代以降、伝わる儀式も一部簡素化しているとはいえ、国民の生活とは大きくかけ離れるからこそ、象徴としての天皇の地位があるのだろう。

「国民の幸せと世界の平和を常に願い国民と寄り添いながら憲法にのっとり日本国および日本国民の統合の象徴として勤めてまいる」との誓いを聞くにつけこの「儀式」が数々の現憲法下で政教分離の観点から違憲であるということを指摘するのは憚れる思いがする。

たが主権者たる国民が象徴としての天皇とどうかかわっていくか。現行憲法下では数々の違憲が指摘されているが、時の政権は前例踏襲で逃げの一手だった。明らかになる男性皇族の減少、皇室を離れる女性皇族が続くことで今後の皇族の継続においてどうあるべきか真剣に検討しなければならないのだ。日本の社会現象と同じように天皇家にも少子高齢化が迫っている。

一方象徴としての国民と寄り添う天皇像とは何なのか。イベント、国内巡幸、被災地へのお見舞いなど天皇自身がよく考えておられるだろう。出来るだけ国民の近くに居たいという考えだろう。

天皇の国事行為は内閣の助言に基づくとなっている。でも気をつけなければならないのは政権、政治家の利用だ。民主党政権の時、小沢さんが中国の習氏が訪日したときに将来主席になる人だから天皇との会見を強要したことがあるし、安倍総理はトランプ大統領に海外の要人より前に新天皇と会見できるサービスまで提供した。

そしてこのようなきらびやかな儀式にも政教分離の観点から憲法違反の疑惑があるのだが、時の政権は難しい問題を前例を踏襲で結論を避けてきた。その政教分離で問題になる点を朝日新聞から拾ってみた。

高御座の天皇を主権者たる国民の代表である首相が1.3m低い「松の間」の床から仰ぎ見る光景に疑問が出ている。

剣や璽(まが玉)も「天孫降臨」の神話に根差すものであるが違憲の疑いがあるのだが調度品扱いで逃げている。

また服装も皇族と同じ束帯を来て中庭に控えるよう求められたが、時の首相である海部首相は拒否した。国民主権の民主主義国家であることを世界に示そうと海部首相は憲法との整合性に拘ったという。

こういう整合性を主張した海部首相も立派だが相当の抵抗があったのではないか。

問題があるのは国費の出費だ。秋篠宮は内廷費で賄うべきだと正論を主張するがうまくいかない。国費出費の差し止め訴訟が大阪高裁で却下されたが、現憲法の趣旨にふさわしくないという。

また正殿の儀への県知事の最高裁の判決で政教分離に反しないという。最高裁も現実容認で憲法違反まで踏み込んだ判断を下していない。

議会も裁判所も触りたくない問題なのだろうが、そうとばかりはいっていられない事態になってきた。いろんな意見を聞いて主権者たる国民の総意を形成すべきだ。





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