2018年5月12日土曜日

原子力:湯川博士曰く「その猛獣は飼い主の手でも完全に制御出来ない」と

1954年4月10日 岡山で「原子力と人類の転機」と題した
講演をやり1000人が集まったという湯川博士の日記
2018.5.12 京都新聞

湯川博士は第五福竜丸事件後、「思考の人」から「行動の人」へと変わったと言う。その博士は「原子力の猛獣はもはや飼い主の手でも完全に制御出来ない凶暴性を発揮し始めた」と言うが、一方で「確かに人類に明るい希望を抱かせる」と揺れる胸中を吐露したそうだ。

湯川博士は中間子論でノーベル物理学賞を受賞した「思考の人」だったが第五福竜丸のビキニ環礁での被爆事件を境に平和運動に積極的に取り組む「行動の人」になったのだ。

それを証明する湯川博士の日記やノートを遺族からの起草を受けた湯川記念館資料室が11日公開したのだ(京都新聞2018.5.11)。

今、何故湯川博士の日記などが公開されたのか。湯川博士の中間子論が原爆開発にどう関係しているか分からないが、私たち日本人は、広島、長崎での原爆投下、第五福竜丸被爆事件そして3.11東北地方太平洋沖地震による巨大津波で東電・福島第一原発が甚大な放射能事故で博士の言う猛獣に襲われ、いずれも凶暴性を経験した。人間では制御出来ない事実を世界の誰よりも知ることが出来たのだ。

その福島第一原発事故の公判が開かれ長期予測に基づき巨大津波襲来に備え防潮堤の増強をやっていればこれほどの悲惨な事故は防げたのではないかと東電の旧経営陣3人が業務上過失致死傷罪で争われている。

湯川博士の言う原子力の凶暴性をしっかり知っていれば予め積極的に安全対策を立てる事が原子力産業に従事する経営者の責務ではないかというのだ。

湯川博士は第五福竜丸事件の後、平和運動に邁進された。

久保山さんの死の翌年1955年、ラッセル/アインシュタイン宣言、決議は第五福竜丸展示館に掲示されている。57年にはバグウォッシュ会議創設のメンバー、62年は科学者京都会議で「核兵器と戦争をなくす」運動に参加された。行動の人になったのだ。

京都新聞には1954年4月10日に岡山での「原子力と人類の転機」と題した講演を行ったことを記した日記が掲載されている。

それによると、「本日岡山アメリカンカルチャーセンターでユネスコの会合に出席、昼食時池田氏夫妻と一緒、午後天満屋葦山会館で「原子力と人類の転機」と題して記念講演、聴衆1000人、レセプションのため「かもめ」で〇〇」と記していた。

1000人集まったのには驚くが、湯川博士の平和運動に国民は耳を貸したのだ。

安倍総理は原発の再稼働に御執心のようだが、長期間運転を停止し再稼働した原発がトラブル続きだ。活断層の近くに立地する原発、南海トラフ巨大地震に津波の高さが予測されている。浜岡原発は東海地震震源域のまっただ中に立地する。

湯川博士の危惧に耳を貸す政治家、事業者がどのくらいいるのか。

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