2018年12月27日木曜日

有罪へ高いハードル:「知らぬ存ぜぬ」「実損なし」で責任回避できるか


企業トップを有罪に持っていくハードルは高い。「知らぬ存ぜぬ」、「実損なし」で責任が回避できるとしたら企業の大事故のトップ責任を問うことも難しくなるし、組織のトップの民法でいう「善管注意義務」、会社法での「忠実義務」も何のために規定されているのか疑問になる。

人を罰するのであるから刑罰の成立条件も厳しく適用する必要はあるのだが、一方で厳しく解釈するために経営トップの無罪放免がありすぎないか。

経営トップにも企業で大事な「安全配慮義務」を「日常業務」として組み込まなければならないし、株主、組織を守るためには「善管注意義務」「忠実義務」など一般人に比し高度な義務を要求すべきではないか。

最近目立った企業の品質不良問題も社長が謝罪会見で頭を下げているが、「報告を受けていなかった」と言い訳する。しかも相当前からやっていたというから驚く。いったん不正が発生すると信用はがた落ち、大きな損失を被る。しかしどうして企業トップの日常業務に「品質保証」が含まれていないのか。

26日の東電旧経営陣3人に対する業務上過失致死傷での禁錮5年の求刑は経営トップに日常業務として安全配慮義務のあることを認定した当然の求刑であったが裁判所がどう認めるかが問題だ。

裁判所はJR宝塚線での脱線事故事案ではJR西日本の歴代3社長の責任を回避し無罪とした。

一度検察が不起訴にした事件を検察審査会で強制起訴した場合、有罪に持っていくハードルは高い。検察審査会の判断は一般国民の判断で国民感情からすれば不起訴は妥当でないと考えた結果なのだ。

それでも無罪となることは刑罰に対する一般国民と裁判所の判断にギャップが大きいということだ。JR西日本の例ではあれほど大きな事故を起こしながら経営トップに責任がないとはどういうことかと言うことになる。

それが昨日検察官役の弁護人が求刑した東電旧経営陣に対する禁錮刑求刑でもいえることだ。
3.11東北地方太平洋沖地震、津波で取り返しのつかない被害を出した東電の経営者にも責任を負わせることは当然だと思う。ところが公判では従来の裁判例からもわかるように経営トップまで責任を求められたことはないのだ。

ゴーン被告は有価証券虚偽記載でも「高額報酬の一部を後払いすることは確定していない」と無罪を主張、特別背任事案でも「日産に実損は出ていない」と反論している。

工場閉鎖やリストラで解雇された人、直接日産とは関係ない人間での「経営者としてあるまじき行為」と見られているが公判での検察、日産vsゴーン、ケリー被告との攻防に注目だ。

下級審では国民感情と合った判決が出ても上級審に行くほど国民感情からギャップが出てくる。

強制起訴の検察官役弁護人は「正義の味方」的立場だが、法の不備は判例で補っていくべきではないか。「一般社会通念上」経営トップには業務上安全配慮義務があること、法人、組織のトップには高度の「善管注意義務」「忠実義務」があることを判例、最高裁判例で築いていくことが大事なのではないか。

国民の期待に法が答えることが重要で、そうでないと法が信用を失うだけだ。


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