2021年3月6日土曜日

東電・福島第一原発事故:東電の経営陣は「何」を信じようとしなかったのか

 

3月11日が近づくとメデイアは東電・福島第一原発事故を特集し、「今」を検証するが復興計画は住民の思うようには行かず、移転復興計画も進んでいるが人が戻ってこない。被災地は過疎化の進む地域だったのだ。震災が過疎化を促進した。 

防潮堤の高さは高くなるが、地場産業である漁業に従事する漁業従事者は海が見えないと仕事に不便と言う。海岸線を散歩していた 老女性は「刑務所の中を散歩しているようだ」と言う。

一方で、これだけの事故を起こしながら政府は再稼動に力を入れる。老朽化施設は廃炉、今ある33基のうち再稼動しているのは9基、福島第一原発の事故処理は40年かかるらしい。汚染土の最終処理も決まらず、福島第一原発に保存されている汚染水は2年後に満杯になるが海洋投棄が進んでいない。 

ここまで大きな事故を起こした東電・旧経営陣は「自分に責任はない」と係争中だ。 

東電旧経営陣は何をバカにしていたのか。何を信じなかったのか。同じ場所にある福島第2原発は無事、東北電力女川原発は地域住民の避難所になったという。当時、新聞もその違いを論じ、それなりに評価していたが、そう大きくは報じていなかった。「そのちがいはなんだったのか」、そこを追求すれば原因がはっきりしてくるのだ。 

東電も若手が政府地震本部の報告に基づきシミュレーションした結果、15mと言う津波高さを得、対策の必要性を経営陣に提案したが、何故か土木学会に検討依頼するよう副本部長(?)が指示したのだ。当時、新聞でそれを知り経営陣は本気で検討する気が合ったのだろうと考えたが、それが間違いだったのだ。 

旧経営陣の判断を理解するには、東北地方での当時の地震、津波発生がどう考えられていたかを知る必要がある。 

ネット検索で「西暦869年貞観地震の復元と東北地方太平洋沖地震の教訓 産業技術総合研究所 岡村」が見つかった。 

当時は、活断層の活動間隔は1000年以上できちんとした歴史上の記録は見つかっておらず、東北地方ではM7~8程度、M9は知られていなかった。昭和三陸津波で見られるように津波に対する意識は高かったという。新聞報道でも「M9は起こりにくい」といわれていたが、次第に「起こらない」と考えるようになったという。 

869年の貞観地震により発生した津波を再現するために津波堆積物調査が産総研を中心に研究され、海岸線から内陸奥深くに堆積物が見つかり津波波源モデルが検討されその分布域、信水域から宮城、福島県沖でM8.4の地震が発生したことを推定した。 

貞観地震モデルとして産総研から政府の地震本部に報告、見直して2012年に公表する予定であったそうだが、その前の2011年に東北地方太平洋沖地震M9クラスが発生したのだ。 

それまでも逐次学会などに発表していたそうだ。マスコミも関心を抱いていた。当然に原子力発電を展開している東電も知りえた情報である。若手技術者がそれに基づきシミュレーションした結果、約15mの津波高さになり防潮堤の増強に必要性を経営陣の前で問うたのだ。 

確か当時の新聞で工事費は80億円とも言われていた。 

M9クラス、津波高さ約15mの地震、津波を東電・旧経営陣は信じられなかったのだ。しかも工事費は高い。 

そこで副本部長か副社長か忘れたが、専門の「土木学会」へ検討依頼したようだ。 

しかし当時の土木学会は人員、予算すべてにわたり東電丸抱えだったのだ。結果が出るまで時間がかかるし、東電経営陣寄りの検証結果が出ていただろう。 

東電が先頭に立ってつぶしにかかったのだ。その結果、今回のような甚大な取り返しの付かない放射能汚染事故となった。旧経営陣の責任は大きいし、当時現場で対応の指揮していた故吉田所長も本社にいたときにこれにかかわっていたのだ。 

「本部本部  今爆発が起きました」という吉田所長の緊迫した声がテレビで流れたことがあるが、その吉田さんこそ「まずかった」と反省したのではないか。

同じ状況下に置かれた東北電力女川原発は政府地震本部の資料に基づきシミュレーションに対応、事故当時は地域住民の避難所となったようだ。又。福島第2原発は「こうなれば次がどうなる」と先々を読み対応できたので重大な事故には至らなかったのだと当時の新聞は報じていた。右往左往した第一原発とは大違いだったのだ。 

国会事故調は「人災だった」と結論付けた意義は大きい。

 

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