「司法取引」が導入されたとき、政治家など権力者による「贈収賄事件」、企業経営者による経済犯罪、暴力団などの組織犯罪など諸悪の根源に迫り、「犯罪の抑制」に役立つと大きな期待を持っていたが、早3年経過し制度運用で、いろんな問題も明らかになった。
何と言っても日産前会長ゴーン被告の「金融商品取引法」違反事件だ。巨額な借金による経営不振の日産に乗り込み、2年で借金を返済しV時回復をもたらした。カリスマ経営者としてもてはやされたが、その後の多くの時間を日産からカネを拠出させ私服を肥やす経営者の姿を見せ付けた。 専門家は経営者特有の犯罪という。
当時の事情を良く知り自らも犯罪に手をつけた元秘書室長が「こんなことを許してはいけない」と「司法取引」し、日産がゴーン前会長を告発、検察が逮捕、起訴した。ゴーン被告は長い、酷な拘留生活に不満を呈し国際社会へも日本の司法制度の実情を訴えた。
数度にわたる保釈請求も認められなかったが、弁護人を「無罪請負人」と言われた弘中弁護士に変え、やっと保釈された。検察の反対を押し切った裁判所の保釈が国外逃亡事件を引き起こし、ゴーン被告はレバノンで自由な生活(?)を満喫(?)しているか。
ゴーン被告の保釈後の生活を監視する立場にあった弘中弁護士も「何をしていたんだ」という批判に「毎日毎日監視できるはずがない」と強弁する有様だ。
その共犯とされたケリー元役員は裁判が進行中だが、元秘書室長の供述の真偽が問われ、新聞報道では苦しい立場にあるらしい。業務上仕方ないことだったのだろうが、自らも犯罪に手を染めた元秘書室長は「司法取引」をして不起訴処分になったとはいえ厳しい状況に置かれていることは伺える。
裁判所だって厳しい立場だ。一方は「司法取引」で起訴、他方は「司法取引」で不起訴だ。
当然に裁判は「証人の証言は慎重に判断する」ということになる。如何に「司法取引」された裁判であっても事実の認定には証拠が重要なのだ。旧来型の考えだと批判を受けるだろうが犯罪には果敢に取り組む必要があるが、間違った判断は許されないのだ。
「司法取引」で告発した人間にも罪はある。無条件に不起訴では許されないだろう。
政治家などがかかわる贈収賄事件ではこのことが顕著だ。
吉川元農林水産相が収賄罪で起訴されたが、贈賄側は司法取引の可能性もあったようだが、検察は司法取引せずに贈賄側も起訴した。収賄側の政治家は起訴するが、贈賄側の業者は不起訴で逃げれるのはおかしいと検察は考えたのだ。業者は個人のためではなく業界のために働きかけたと言うが、贈収賄罪が刑法に記されているということは「やってはいけない」ということなのだ。
「司法取引」制度を維持するには、告発人の権利を守ることが第一だ。弁護側はいろんな方面から追求してくるだろうが「疑わしくは告発人の利益に」と言うことにならないか。悪事を追求する告発人に対して悪事をやった被告人を援護していては「司法取引」の導入意義が無いのではないか。