2021年6月16日水曜日

寺田寅彦博士の随筆「震災日記より」は関東大震災の貴重な資料だ

寺田寅彦随筆 「震災日記より」
角川ソフィア文庫

朝日新聞2013.9.1

 

新聞休刊日は何か文字を読まなければ寂しいと思い、本棚から最近購入した角川ソフィア文庫の寺田寅彦博士の随筆「ピタゴラスと豆」を引っ張り出しページをめくると「震災日記より」が目に留まった。 

大正12年8月24日から9月2日までの日記だ。9月1日の震災と言うと1923年の関東大震災ではないか。関東大震災が発生した正午ごろ、寺田寅彦博士は上野で二科展を見て喫茶店に入っていたときの出来事だ。 

当時の発生状況を物理学者で、地震学者でもある寺田寅彦博士が専門知識を活かして書き留めていた日記は貴重な資料ではないか。 

寺田寅彦博士の日記と朝日新聞(2013.9.1)の「関東大震災を知る」記事から当時のことを再確認できた。新聞では関東大震災の研究を続けている武村名大教授が「本震は一級、余震は超一級だった」と言うが博士の日記からもそれが分かる。 

今、首都直下地震、相模トラフ地震、関東大震災、そして南海トラフ巨大地震、更には富士山噴火と自然災害、しかも巨大な災害が想定されている。首都直下地震では今まで東京湾北部が進言だったが、今は都心南部直下地震として品川区から大田区の都心南部の直下の断層が動くと東京にも多大な被害が出てくると注目されるようになった。私も大田区に住んでいる他人事ではないのだ。 

だから寺田寅彦博士の経験は役立つのだ。 

「震災日記」は大正12年8月24日から始まる。30日までは晴れ、曇りの天気で雷雨、驟雨も発生している。 

ところが9月1日になると記述が詳細になってくる。朝はしけ模様、時々暴雨、時々強くなったと思ったらばったり止まったりしたという。新聞報道では当時、台風が新潟県地方にあり、風速も10mだった。 

午前10時半ごろ寺田寅彦博士は知り合いの画家が出展している上野の二科展に行く、近くの喫茶店に入って紅茶を飲んでいた時だ。 

急激な地震を感じたと言う。両足の裏を下から木槌で急速に乱打する感じだったという。恐らくその前に弱い初期微動があったのだろうと思うが気づかなかった。妙に短周期の振動と思ったという。 

短周期だと木造建築物で被害が出、倒壊し、出火の危険がある。 

そう思っているうちに本当の主要動が急激に襲ってきた。2度目の激しい揺れだ。今まで経験の無かった激しい揺れで天井を見ると「ゆたりゆたり」と揺れ4~5秒の長周期振動だ。これを見てこの建物は大丈夫と直感し「恐ろしい」感じはなくなったという。

この珍しい強振動の経過を出来るだけ詳しく観察しようと思ったという。主要動が始まってびっくりしてから直ぐに数秒後に一時振動が衰え、この分ではたいしたことはないと思った頃、もう一度急激な最初にも増した激しい波が来て二度目にびっくりさせられたが次第に減衰して長周期の波ばかりになったと記している。 

「本震一級、余震は超一級」の巨大地震なのだ。最近では熊本地震がそうだった。本震と思っていた揺れの後、それ以上の揺れが発生、前の揺れを余震、後の揺れを本震とされた。 

この当時の寺田寅彦博士の記述の正しさを朝日新聞(2013.9.1)の「関東大震災を知る」からも確認できる。 

1923年9月1日の関東大震災の震源域は神奈川県の内陸から房総半島まで130km×70kmの広範囲で本震は小田原付近でM7.9, 9月1日11時58分、ついで余震が6回、M7.1~7.6、東京に近い震源としては羽田沖でM7.2、12時01分だ。

博士が2回揺れを経験したと言うのは本震と一回目の余震ではなかったか。上野公園から不忍弁天の方に行くと社務所が倒れ掛かっているのを見てこれは大地震だとようやく気づいたと言う。 

東大も火災が起きたようで、皆が知らせてくれたらしい。東京では134箇所で出火、火災旋風は被害を拡大した。日記にも悲惨な状況が記されていた。 

津波も静岡沿岸で12m、鎌倉の光明寺で5~6m、大津波で漁船が市街地まで打ち上げられた。東京湾では津波による大きな被害はなかったと言う。

寺田寅彦博士は無事な日々が続いているうちに突然起きた著しい変化を十分にリアライズするには存外手数がかかると記していた。物理学者で地震学者でもある博士の日記は貴重な資料である。 

何時起きても不思議ではない首都直下地震、電車に乗ってもほとんどの人がスマホをいじっているが、突然スマホから緊急地震速報が流れ電車が止まるとどうするのか。「今日は起きないだろう」と言う安心バイアスでも働いているのか。

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